さくらちゃん教

誰かの言葉に魅せられて離れられない時ってありますか。その人を尊敬し、その考えを尊重しそこに重きを置いて行動した時、それはもう宗教なのかもしれません。

あなたにとってフェミニズムとは何ですか?自分を苦しめるものですか?それとも、救うものですか?

フェミニズムとは何かわからない。少なくとも、今のフェミニズムは、男女同権を訴えるものではない。「女がその性から解放されること」。その意味を、あなたは分かりますか。わたしには分かりません。

 

最近また、フェミニストで東大名誉教授の上野千鶴子先生が炎上した。

わたしのことを少し知っている人は、わたしが上野千鶴子信者の熱狂的フェミニストだと思っている人がいるかもしれないけど、それは違う。

もともと私は、つい最近までずっと、女だからといって差別されている意識は全くなかった。むしろ、女は個性だと思っていた。女である個性を生かして、「女なのに東大生」とか、「女なのに数学ができる」とか、そんな風に言われることも大好きだった。女だからこそ、恋人に、自分より頭の良い東大生を選べた(わたしは頭の良い人が大好きだけど、もしも男だったら、バカにされて仲良くできなかっただろう)。

だから、女であることに過剰に反発しているように見えるフェミニズムがどんな思想なのか予想もできなかったし、彼女たちが何がしたいのか、上野千鶴子先生の本を読むまでは全く理解できなかった。

 

 

でも、彼女の『女ぎらい』を初めて読んだとき、自分の中にある、ミソジニー(女性嫌悪)を初めて発見した。つまり、「女性である自分」に対しての自己嫌悪を発見した。わたしは女ぎらいな部分があった。それまで、問題意識がなかったところに問題意識が生まれた。この感覚が忘れられない。もともとあったものだったはずなのに、私は何も見えていなくて、というかほとんどの人が見えていなくて、でも彼女が教えてくれた、自分の中にこんな気持ちがあったことを。

 

彼女は社会学者という肩書きを持っているけれど、社会学者って何のためにいるのかな。

 

他の人が全く問題にしていないことが、他の誰かにとっては大問題。上野先生は当事者問題を社会の問題にして良いといった。「自分1人の問題が世間のみんなの問題」

何が問題で何が問題じゃないのか、誰かにとっては問題でも他の人には問題ではない、だから社会学はふわっとしているし形而上学的なところがあって意味を見出し難い人もいるはず。社会学とはなにか?という問いにハマってそこから抜け出せない、問題に取りかかれない人もいる。

一時期、わたしも上野先生が結局、何がしたいのか考えていた。わたしの答えはこれ。

自分の悩みを懸命に解決しようと働くこと。そして、それに周りを巻き込んでいくこと。

もし自分に悩みがあり、当事者問題として社会学に取り組んだら、それは他の人をも巻き込んで解決できるのではないか。それに成功したのが上野千鶴子先生なんじゃないのかって。フェミだって、最初は女性自身も、今の世の中が、不当だなんて思いつかなかっただろう。男の下に女がいることが当たり前だと思ってただろう。でも、彼女は違ったし、彼女のように違和感を感じている人、言われて違和感を発見した人がたくさんいたから、彼女は女性学のパイオニアとして権威を持つに至ったんだろう。

他にも例を挙げると、、今の「学歴社会」が不当だと世間の人々が思い始めたのも2000年ごろかららしい。それまでも、同じ環境だったはずなのに、誰か1人が問題として取り上げるか取り上げないかで、こんなにも大きく世間の人々の気持ちが動かされる。

そういう人たちを、わたしは、なんてかっこいいんだろうと感じただけ。

 

だから、わたしが上野先生に学んだことは単なるフェミニズムではない。わたしは自分のことをフェミニストだとはほとんど思ったことがない。そうじゃないかと疑ったことはあるし、もちろんフェミニズムの思想に共感するところはあるが、さっき書いた通り、そこまで当事者問題としても感じていない。女性であること自体が強い悩みでもない。男性として生まれてきても同じくらい悩みはあったんじゃないかと思うし。

フェミニストは、周りの目、今の状況を問題と捉えていない人(捉える方が正しいとは言っていない)に立ち向かうほどの悩みのエネルギーがないとやってられないだろう。だから、「わたしはフェミニストです」と名乗ることは、思っているよりも勇気がいるし力があることだと思う。ほかの社会学の問題もそうだろうけどね。

 

じゃあなにを、わたしが上野千鶴子先生に学んだかというと、たくさんあるけれど、一番は、当事者問題としての意識を持つことで、今まで問題とされてこなかったことを問題にすることの力。

それを、問題の輪郭が見えていなかった人たちに気づかせることができること。人間は、みんな意外と同じことで悩んでいること。

さらにいうと、他人の問題は自分の問題。自分のことを訴えることで、隣にいる人の悩みに気付ける人が多くなったこと。

社会学で重要なのは、問題を問題と人に認識させること。それを問題だと思っていた人にも思っていなかった人にも。「わたしと同じこと考えていた人がいるんだ」「そういうことに悩んでいる人もいるんだな」「今まで気付かなかったけど、これ、わたしだ!」って。

 

余談だけど、それに加えて、なぜわたしがとくに彼女が好きなのかというと、彼女が本当のことだけを言っているから。彼女の虚偽発言を問題視していた方にとっては????って感じかもしれないけど、私が言いたいのは、実際に起こっていることを忠実に書いているかいないかと言う点ではない。彼女が、本当に問題視したい点を、批判の声や賛同の声、関心のない声をひっくるめて、自分で見て、自分で考えて、自分の言葉で表しているから。

そういう大人は、まだまだ子供の私から見ると、とても少ない。

たとえば、カント哲学の中島義道先生。電気通信大の卒業生に向けたあの有名な『はなむけの言葉』。

 

学生諸君に向けて、新しい進路へのヒントないしアドバイスを書けという編集部からの依頼であるが、じつはとりたてて何もないのである。
 しばらく生きてみればわかるが、個々人の人生はそれぞれ特殊であり、他人のヒントやアドバイスは何も役に立たない。とくにこういうところに書きつらねている人生の諸先輩の「きれいごと」は、おみくじほどの役にも立たない。

 振り返ってみるに、小学校の卒業以来、厭というほど「はなむけの言葉」を聞いてきたが、全て忘れてしまった。いましみじみ思うのは、そのすべてが自分にとって何の価値もなかったということ。なぜか?言葉を発する者が無難で定型的な言葉を羅列しているだけだからである。そういう言葉は聞く者の身体に突き刺さってこない。

 だとすると、せめていくぶんでも本当のことを書かねばならないわけであるが、私は人生の先輩としてのアドバイスは何も持ち合わせておらず、ただ私のようになってもらいたくないだけであるから、こんなことはみんなよくわかっているので、あえて言うまでもない。

 これで終りにしてもいいのだけれど、すべての若い人々に一つだけ(アドバイスではなくて)心からの「お願い」。

 どんな愚かな人生でも、乏しい人生でも、醜い人生でもいい。死なないでもらいたい。生きてもらいたい。
ご卒業おめでとうございます、どうせ死んでしまうのですが。みなさんはこの人生の新しい展開に、やや不安を抱きつつも、大きな希望に胸膨らませていることでしょう、どうせ死んでしまうのですが。みずからの個性を見失うことなく、困難を糧として、大きく成長する機会にしてほしいのです、どうせ死んでしまうのですが。何年かの後に、逞しく成長した皆さんの笑顔に会えれば、これほど喜ばしいことはありません。今後の健闘を切に祈ります、どうせ死んでしまうのですが。

 どんな愚かな人生でも、乏しい人生でも、醜い人生でもいい。死なないでもらいたい。生きてもらいたい。
このはなむけの言葉は、林修先生(わたしは彼のことも好き)もテレビで紹介していたくらいだから知っている人も多いと思う。「本当のことを言っているのは中島先生だ!」と学生たちが次々に言って、この「はなむけの言葉」が有名になったのも頷ける。皆さんの中に、記憶に残っている「はなむけの言葉」を言ってくれた人は今までいたでしょうか。

中島先生は、「ありがとうは言わない」「ずっと笑顔の人は嫌い」など言っている社会不適合者。だから、彼のことを嫌いな人が多いことも分かっている。けれど、それでも、彼みたいな本当の言葉を使って「はなむけの言葉」を贈る大人を私は身近に感じない。

上野先生も同じ。今年の東大の祝辞ほど、記憶に残るものはほとんどないのではないかな。 それは、彼女が本当のことを言ったからだと思う。

もちろん、みんなにとって本当のことなんてない。だから、それを分かっていない人はみんなにとって本当のことを言おうとして、でもそんなのないから結局当たり障りのない

「皆さんは卒業した後、色々な人々と出会うことでしょう。どんな出会いも一つ一つ意味があります。「人」を大切にできるそんな人間になって下さい」とか、「あなたらしい自分の花を咲かせて下さい。いつも応援しています。」のような記憶にも残らないし、これは自分とは違うと批判するようなものでもない言葉ができあがるんだろう。わたしだったら「どんな出会いにも意味があるとは思わない、その人に時間を使うのが無駄だと思ったらそのあなたの直感を信じなさい」って言うけどね。

 

中島先生みたいに、アドバイスではなく「彼自身」の気持ちを送ること。上野千鶴子先生みたいに「自分の問題」としてのフェミニズムを軸としてメッセージを送ること。

そういう人たちに、わたしは、憧れている。